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うじまみれの男

 私は風呂が嫌いだ。小学生の時にプールで溺れたトラウマから、もう何十年も開放されない。水を見るだけであの恐怖がよみがえり、全身が震えて気を失ってしまう。とても克服できるとは思えなかった。
あれから何十年経ったのだろうか、いよいよ50歳の誕生日を迎えることになりそうだ。正直、ここまで生きてこられたのは奇跡だった。水以外であれば、液体は何でも大丈夫なので、喉が渇いても問題ない。ただ、風呂に入れないため、人間関係には相当苦労した。

 私の体には何十年もかけて溜まってきた汚れと匂いが、皮膚を通り越して身体の芯から染み付いている。人が寄りつかなくなってきたのは30歳のころからだった。そのころには既に当たり前のように私の半径1メートル以内には蝿がたかっていた。
40歳を過ぎると、全身にとんでもないものが住み着いてくるようになる。それから10年間、明らかに反応が違う人との接触を避けるようになり、家に引きこもることになった。

1 貯金が底をつく

 50歳になってとうとう貯金が底をついた。ついに働かなければいけない日がきた。もう家で引きこもる生活はできない。 だが、この生活の中でも既に一部の人に顔を見られてしまっている。それは郵便の配達員だ。うめき声を上げて私の前から逃げたのを覚えている。

「ブーンブーンブーン!」

 私は寝ているときの顔と、起きているときの顔の色が違う。いや、正しくは顔についているものが違うといったほうがいいだろう。布団の中で、働くことを決意し起き上がる。一瞬で顔を埋め尽くしていた蝿がバサバサと羽を広げて飛んでいった。
その瞬間、私の顔は白くなった。ただし、それは素顔ではなかった。この顔が郵便の配達員を恐怖のどん底に陥れる顔、小さいものが無数に蠢いているグロテクスな白い顔だ。まさにウジ虫が大量に住み着いた顔だった。

「・・・こいつとは何年も過ごしてきた、今さらお別れできねえな」

 何年もひとつの屋根の下をともにしてきた大切な生き物を、そう簡単に顔から外すことなんてとてもできない。こいつらにとって他に住む場所はあるのだろうか。親は子供が成長するまで責任もって世話をする。わたしの気持ちはそれと同じだった。うじよ、私とともに外へ行こう。ウジまみれの身体をゆっくりと起こし、玄関へと向かった。

2 外を歩く

「うっ、眩しい」

 いつもカーテンを閉めていたので、数十年ぶりの太陽が余計に眩しく感じた。全身についているウジの動きも機敏になる。かゆかったが、それは我慢することにした。

 コンビニへ向かう。求人雑誌でも立ち読みして簡単なアルバイトから始めるのがいいと思った。途中で、反対車線で犬を散歩させている老人とすれ違った。 老人がこちらに気づくとすぐに悲鳴を上げた。目を合わせると、相手は身動きが取れなくなった。私は、横断歩道を渡り、足を震わせながら一歩も動けない老人に近づいた。

「爺さん、怖がらせてごめんな。プレゼントしてやるよ」

 善意をこめて、顔についている一匹の元気な蛆虫を老人の頬にピトリとくっつけた。それは元気よく老人の顔全体を這いずり回る。まるで新しいご主人を受け入れたかのように。老人は無表情のまま、相変わらず一歩も動けない。口から泡のようなものを吹いている。

「爺さん、よかったな」

 私は満足してその場をあとにした。たった一匹、寂しくなんかなかった。なぜなら常に全身で無数のウジムシ達の動きを感じているからだ。成長すれば巣立っていくが、やがてまた新しい蛆が生まれてくる。風呂に入らない限り、永遠に減ることはないだろう。私はコンビニについた。自動ドアが開く。

「いらっしゃいま・・・!?ぐふぉ」

 店員がにおいに耐え切れず、控え室の奥に消えた。私の体臭は自動ドアが開いた瞬間から、コンビニの店内に行き渡った。中に入ってドアが閉まると、充満していって瞬く間に地獄と化した。 客が全員逃げるようにして店から出た。

3 アルバイト

 雑誌コーナーにある求人誌を読みあさる。なかなかいいバイトが見つからない。読み終えたものはすぐ私の汚い垢で汚れていくが、そんなものおかまいなしだ。こっちは生きていくために必死なので。人一人の命を救うためであれば、汚くなってもいいと自分の中で正当化していた。

 結局バイトは見つからなかったが、気持ちは次第にこのコンビニに傾いた。ここは居心地がいい。このコンビニならバイトしてもいいという気持ちが私の足をゆっくりと店員の立っているカウンターへ向かわせる。汚い身体を左右に揺さぶらせながらそこに立つと、店員が私が見ていることにすぐ気づいてふたたびスタッフルームへ逃げようとした。私は呼び止める。

「兄ちゃん逃げるな、バイトがしたいだけなんだ」
「は・・・はい」

 小刻みに震えた店員が、身体を反らせながら答えた。押したらすぐに後ろに倒れてしまいそうだ。

「ここが気に入ったんだ」
私はカウンターの上をどす黒い手でゆっくりと撫で回した。このコンビニが気に入っているという合図になる。
「ひぃい・・・」
店員が青ざめて後ずさる。
「怖がらなくいいんだよ。私は確かに見た目はウジまみれでアレだが、心の中はリカちゃん人形だから」
顔を近づけて言った。強烈な口臭が店員の鼻をつく。

「た・・・助けて・・・」
店員が小声で呻いた。私は安心させてやろうと、口元についているウジもどかし、ありったけの笑顔を向けた。しかし店員は恐怖におびえたまま動けなくなった。そして、とうとう控え室から店長が出てきた。所見でいきなり私にファブリーズを かけてきた。とてもいい匂いだった。店長が勇気をふり絞り、私に告げた。

「あ・・・アルバイトは・・・募集してません!」
「それは困ったねぇ」

 断られることは、予想していた。そこでちょうどいいところに客が入ってきた。私は身動きの取れない店員の制服を剥ぎ取り、それを着た。店長は怯えている様子で止めることができなかった。私の身体がうじまみれでとても汚いから、手をだせない。さぁ、接客アピールの始まりだ。店長にすばらしい対応を見せれば、きっと採用してくれるだろうと考えた。さぁ、ショータイムだ。

ショータイム

 店内の臭い匂いは消えていた。いつのまにか換気扇が回っているからだった。客が弁当コーナーのほうに移動した。わたしはそれについてった。客が弁当に手を伸ばすと、私もその弁当を選んだフリをした。手が触れる。

「いらっしゃいませ」
「え?」

 これが私の考えた接客だ。偶然を装ったスキンシップで、お客様との距離をより近づける。客が私のほうを見た。そこには店員の服を着た化け物がいた。

「ぎゃあああああ!!」

 汚い私の手を振り払い、逃げようとした。やはりこの顔はまずかったようだ。私は逃げようとする客を後ろから抱きかかえるような形で止めた。

「た・・・助けて!」
身動きの取れなくなった客が必死にもがいている。まるであり地獄にかかった小さな蟻だった。ただ、客が逃げるというこの状況は、よい接客を見せる私にとって不利だ。頭の中で考えを巡らせた。そして思いついた。この状況を逆手にとって、私が万引犯を捕まえる頼りがいのある店員を演じよう。カウンターにいる店長の様子は視界に捉えているので、こちらを見てるか確認できる。

「お客様、万引きはだめです!」真顔で言ってやった。
「い・・・息が臭い!だ・・・誰か助けて!!」

 店長は何が起こってるのかよく分からない様子でこちらを見ている。だが会話は聞こえてくるはずだ。このまま客を悪人にしたてるようにふたたび口を開いた。

「お客様!万引きして逃げるのはだめです!」
分かりやすく付け足して言った。実際は私のこの強烈な口臭、そして背中で感じている私の体に大量に住み着いているウジの動きを感じることに耐えられないはずだ。店長の表情に変化が出た。私の言っていることをちゃんと聞いているようだ。

 だが、客もバカではない。すぐに私の作戦に気づくはずだ。そのうち濡れ衣を晴らす行動をとってくるはず。先手必勝。次に客が何かを言いかけてくるときが、おそらくそれにあたる言葉だろう。

「・・・・ぼ・・・僕は万引きなど・・・」
客が口を開き始めた。そのタイミングを逃さなかった。

 チュバ~ッ!接吻で客の口を塞いだ。だがこの先、ちゃんと接吻をする理由を作らなければならない。黙っていてはただの変態だ。まずは、これ以上しゃべらせたくないので、大量のウジを口移ししてやった。客は動いているウジを飲み込む喉の感触に耐え切れず、まともに動けなくなった。接吻している状態のまま、私は考えた。そしてうまい理由を思いついた。

「万引きしている人には、接吻による愛を与えることによって、改心させていくのです」

 両手を客から離した。もはや客に立てるだけの力は残っていなかった。倒れそうになる。私がそれを包み込むように抱きかかえた。客にはもうしゃべれる力は残っていない。私の有利だ。演技を続ける。

「そうかそうか、万引きした罪がそんなにつらいか。分かるぞ、よしよしいい子だ」
客の頭のボーリングの玉を扱うようになでまわした。
「・・・どうです?店長」

 私は店長のほうを見た。しかし店長はいつの間にか気絶していた。

「何だと!?」

 私と客の状況。それはまさしく地獄絵図だった。人間と化け物の接吻。そしてウジの口移し。それを見てまともに立っていられるほうがおかしい。
どうやら私のバイト探しはまだ時間がかかるようだ・・・。だが、この程度でめげる私ではない。全身で感じているウジの動きが、不の感情をとろけるミルクティーのように払拭してくれているから。

 そう、生まれて50年。バイト探しはまだ始まったばかりだ。

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