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誰だ屁をこいたのは!

 午前7時30分。人でごった返した横浜駅のホームに上りの東海道線が到着した。
ドアが開き、降りる人が全員出てくると、乗車の勢いが始まる。人の収まりきらない車内に無理やり入ろうとする者もいる。駅員が手伝って車内に押し込むのもそうそう珍しいことではない。

 発車ベルが鳴ると、階段から変な男がホームに駆け上がってきた。そのまま助走をつけ、ドアめがけて飛び込んでくる。それは駆け込み乗車という範囲を超えた、いわば飛び込み乗車そのものだった。その丸太のような勢いを受けた乗客が数名、悲鳴を上げる。中には「こいつ死ね」と吐き捨てつつ、睨みつけた者もいた。

 ドアが閉まると、変な男は謝る様子もなく、「ふぅ、間に合った」とポケットから携帯電話を取り出しながら言った。この男の容姿は最悪だ。頭には水泳キャップを被っており、顔が見るに堪えないブサイクで、直径3cmの巨大ホクロがついている。ニコチャンマークTシャツと作業ズボンを組み合わせたファッションは、そいつのセンスのなさを物語っている。名前は百足野春男。48歳の独身。

「きも・・・」
 運悪く百足野の前に立っていた小柄な男がわざとらしく聞こえるように呟いた。
百足野は男のそんな言葉を全く気にする様子もなく、携帯電話のボタンを押していた。相手が電話に出ると、
「結婚してくれ!!」
と声を張り上げた。周囲の人は突然の大声に驚き、一斉に百足野を見た。

「無理です。もう電話してこないでください」
電話の相手が答えた。
「冷たいな~かなちゃん。また電話番号変えたんだって?友達にね、5万円出したら教えてくれたよ」
「ひどい・・・」
「ひどくないさ。5万円で君の友達が幸せになれるんなら、安いもんさ。ぶへへへへへー」
 気色悪い笑い声で飛んだ唾が、前の男にかかった。

「おいあんた、唾汚ねえよ。それに電車の中で堂々と電話するなよ」
唾でとうとう頭にきた男が百足野に言った。周りの人もそう思っているのは当然で、同調している。
「うるさいな。今、電話中なんだ。静かにしてくれない」
百足野は平然とした様子で答えた。男はそんな百足野の携帯電話が当たり前のような態度に返す言葉がなく舌打ちをするしかなかった。本当は、それはこっちのセリフだとでもいい返してやりたかったが、余計なトラブルで神経をすり減らしたくないので、あえて避けた。

「・・・じゃあねかなちゃん。また電話するからね」
 5分にも及ぶ電話がようやく終わった。しかし、ようやく静寂が訪れたのもつかの間。突然鳴った屁が再び”それ”を動かした。

プゥ~~~~。

「誰だ屁をこいたのは!」

 その音に真っ先に反応したのは百足田だった。完全に被害者面で、携帯電話で周りに迷惑をかけていたことにも気づいていない。冷たい視線が一斉に百足野に集中する。

「屁をこいたのは誰だと言っているんだ!」
 百足野は怒りを露わにし、思いっきりドアを叩いた。しかし誰も反応がない。匂いがこちらまで充満してくると、「臭いんだよ!」と言って再びドアを叩いた。ただ、そんな百足野の行動は周りに迷惑をかけているどころか、一部の人たちには滑稽にさえ思えてきた。そんな百足野をもてあそぶかのように、再び屁の音が鳴った。

ブバッ!!!

「誰だ屁をこいたのは!」
 また百足野が反応した。しかも今度の豪快な屁は、最初の屁とは別方向からなっていたため、別の人物によるものだ。うっかり屁がでてしまったのか、あるいは百足野の反応を知って、わざとこいたのかは知る由もない。
「匂いがこっちにくるじゃないかよぉっ!」
 また怒りに身を任せ、ドアを叩く。今度は3回も4回も続けざまだった。やはり誰も反応がないので、百足野はしばらくの間落ち着いた。その後、アナウンスが次の駅を告げたタイミングで、百足野をもてあそぶかのような3度目の屁が放たれる。

 ブババババ!ボンッ!!

「誰だ屁をこいたのは!」
 挑発的なわざとらしい屁だ。・・・ その時、電車が駅に止まったようで、不意に扉が開いた。百足野は一瞬何が起きたのかは分からず、ただ降車の勢いにのまれていくばかりだった。また、降りる人全員が百足野に屁をかましていったため、それを受けた百足野がそのあと平気でいられるわけがなかった。

 種々雑多なる屁が百足野の嗅覚を前にして、何通りもの組み合わせで混合されていく。低確率だが、組み合わせ次第では、想像を超えた恐ろしい屁の匂いが発生することもある。ところが、それが今起こってしまったのだ。偶然電車で居合わせたある二名の屁の組み合わせが、実は史上最悪ともいえる屁で、それは百足野の嗅覚を通り越して、身体にもダメージを与えた。

「ぐえええええええ~~!なんだこの匂いは助けてくれ~~~~~!!」

 百足野の人生は終わった。

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