fb
文字のサイズ フォントを小さくする 現在の文字の大きさ フォントを大きくする
bargerIcon

ゴキブリマニア

 ガキの頃、夜中一人でトイレに行く途中、突如目の前に黒いものが通り過ぎた。カサカサと音をたて、そのまま闇に消えていく不気味な物体は、俺に恐怖感を植えつけた。やがてトラウマとなり、20歳の誕生日を迎える。

「誕生日おめでとう誤記男」
俺の名前は山田誤記男。友人宅で誕生日を祝ってもらっている。目の前にある大きなバースデーケーキはとても一人では食べきれない。それでも嬉しかった。電話がかかってきて何だろうと思って、友人宅に入ったらクラッカー音が鳴った。

「村田、まじかよ。こんなの一人じゃ食えないって」
村田はたった一人の大切な友人だった。悩みを抱えがちだった俺の相談にいつも乗ってくれている。
「さぁ、ケーキ食べてくれ。俺は胃の調子が悪くて、もう食えんよ」
「そうか、じゃあ遠慮なくいただくぜ」
大きなバースデーケーキにかぶりついた。人生のルートを大きく外れた。その先には闇が広がっている。

 口の中で何かが動いた。ケーキを食べているつもりの俺の味覚は、”別のもの”の味で支配されていた。明らかにそれは今まで経験したことのない味。吐き気を催す間もなく、口の中でカサカサと”何か”が激しく暴れだした。
「誤記男悪いな。俺のちょっとしたイタズラだよ」村田が笑う。
声が出なかった。トラウマが呼び出され、恐怖以上のものが頂点に達したとき、俺の中で何かが目覚めた。

 黒いものを口の中から吐き出すと、俺は顔を村田に向けた。表情はない。
「村田、今俺は最高な気分だぜ」
「や・・・山田?」
ゴキブリマニア君臨である。

10年後

 30歳になった。独身生活の上、年収の低いニートな俺はボロアパートに住んでいる。当然だ、俺はもうすでにゴキブリ以外に考えられないからである。就職活動真っ盛りだが、面接で趣味のことを話すと、即退場だった。
部屋中、かわいいかわいいゴキちゃん達で溢れかえっている。元気なヤツは羽を広げ、バサバサ飛び回る。まれにフンが落ちて目に入るので、目薬は必須のアイテムだ。ついでにコイツらはちゃんと名前をつけてやっている。
ゴキブリだってせっかく生きているんだ。神様から頂いた大事な命に名前もつけてもらえずに、一生を過ごすことになるなんてあんまりだ。俺はゴキ達をなめまわすように見てから動きや特徴を把握し、名前をつけてやった。

 朝7時。窓越しに暖かい日差しが頬を照らしつける。目覚まし時計がけたたましく鳴った。目が覚めると、まだ明かりが足りなかったので、電気を点けた。すると床一面に広がっていた黒い絨毯は一瞬にしてもとの色に戻った。ゴキブリ達が隠れるとちょっと寂しい気持ちになるが、これでいい。歩くとき、ついつい踏んでしまうからだ。
朝食は電気を消してから食う。床にばらまいた匂いのキツい玉ねぎを、ゴキブリ達と一緒で犬のように。箸や手は一切使わない。また、間違えてゴキブリを口の中に入れてしまったときは、ちゃんと「ごめんね」と謝ってから吐き出す。
朝食を済ますと、一匹のゴキブリを連れて散歩することにした。外は快晴。家に篭るには勿体無い。

散歩

「おいおい、ゴキ丸、そんなに速く走らないでくれよ!俺を置いていくつもりか?まったく、お前はいつも元気だなー!」
ゴキ丸は玉ねぎをたらふく食べていたので、足の動きがいつもと違って滑らかだった。スピードがよく出る。昨日も寝つきがよくて、背中のツヤが黒光りしていた。絶好調だろう。ちょっと目を離したらすぐにはぐれてしまいそうだ。。

「おっと」
視界に近所の人が入ってきた。俺にまだ気づかない。軽く挨拶することにした。
「ゴキ丸、あいつにきちんと挨拶してあげよう」
手のひらにゴキ丸を乗せる。以心伝心なのか、ゴキ丸は大人しくなった。挨拶をする前の空気が読めているようだ。なかなか賢い。
そのままの状態で近所の人に近づいた。相手がこっちに気づくと、俺の顔を見て逃げる体勢に入った。実は毎回そうだった。以前も俺の顔を見て逃げたのだ。だが、今回は逃がすわけにはいかなかった。ゴキ丸の元気な顔を見せてあげたいため、いつもと違ってやる気が沸いてくる。逃げの体勢に入っている相手の前に周り込んだ。

「ひっ・・・」
「よし、今だゴキ丸。ちゃんと触覚をクネらせて挨拶してやれ」
ゴキ丸は触覚をクネらせた。調子がよかったので、そのまま相手の顔に飛びついて触覚で顔をくすぐってやった。
「ぐぉおおおおおお!!」
相手は意味不明な声を叫び、逃げていった。

「よーし、ゴキ丸!散歩のついでにお前の服を買いに行こう!」
俺はゴキ丸が寒そうにしてにるのに気づいていた。ちょっと可愛そうだから暖かい服を買ってやる事にしたのだ。

買い物

高級ファッションショップには明らかに場違いな汚い男が現れた。それは俺だ。ゴキブリが撒き散らしたフンの色が染み付いた服は、乞食の着ているボロを連想させた。
「いらっしゃいませ・・・、うっ・・・」
入り口の店員が、俺の鼻に止まっているゴキ丸を見て、表情が凍りつく。
「気にするな、俺の大事な家族なんだ」
軽く笑顔を向けてあげた。

 軽く店内を見回す。ゴキブリが着れそうなサイズの服はどこにもない。闇雲に探し回るより、店員に訊いたほうが早いと思うので、話しかけることにした。しかし気のせいだろうか、俺が近づくと歩を速めて一定距離を保とうとする。不自然なほどに歩調が変化していた。俺はその不自然を通り越して走って距離を縮めてやった。観念したのか、ようやく店員がこっちに体を向けた。

「な・・・何でしょうか?」
「こいつに着せる服はないのか?」
ゴキブリを店員の顔に近づけて言った。
「ちょっと・・・何ですかそれは」
「俺の家族だ。服をこいつに着せてあげたいんだよ」
店員は目をゴキブリから逸らした。顔がそれを早くどけてくれと言っている。俺は構わずさらにゴキ丸を店員の顔に近づけてやった。触覚が店員の鼻に触れた。

「ひっ・・・気持ち悪い・・・」
「こいつの顔をよーく見ろ!ゴキ丸のこの寒そうな顔を!お前はこいつが可愛そうだとは思わないのか?」
「し・・・知りません!」
話にならなかった。おそらくこの店にはゴキブリが着るような服は置いていないのだろう。俺は軽くため息をして諦めることにした。
「分かったよ。帰るわ。悪かったな」

店をあとにした。俺もゴキ丸も疲れてきたので、散歩をやめて家に帰ることにした。

帰宅

「ただいまーー!お前ら待たせたな!!」
電気を点けずに、部屋に戻った。ガサガサガサと、俺の体中を無数のゴキブリが全身這いずり回る。喜びの絶頂の中、部屋の片隅に黒いまめのようなものを見つけた。
「卵じゃねえかよ」
新しい生命がこの中に宿っている。たった一つの小さな黒豆を、人差し指で優しくさすった。円を描くように。
「元気に育つといいな、俺が立派なゴキブリにしてやるからな」

ゴキブリと戯れている途中で、違和感に気いた。いつもの”あれ”がない。巨大なゴキブリの種類――メガロブラッタ・ロンギペニスの感触は体が覚えているので、忘れるわけがなかった。
「ゴキビョンがいねぇ。探すぞ」
俺は慌てて家を飛び出した。

「おーーーい!ゴキピョーーーン!!」
外はすっかり暗くなっていた。この闇の中、たった一匹のゴキブリを探すのは、森の中で葉を捜すようなものだった。思考を巡らす。ゴキピョンは通常よりも5倍程でかい体をしている。そんな巨大なものが外を走り回っていればどうなるだろう。待っているだけで、いずれ誰かの悲鳴が聞こえてくるのではないだろうか。

俺は公園で悲鳴が聞こえてくるのを待ってみることにした。

公園

ベンチでカップルがいちゃいちゃしていた。俺はその背後から気づかれないようにゆっくりと歩み寄った。うかつに正面から近づけば逃げられてしまう恐れがあるからだろう。
「すいません、このこの辺で悲鳴聞こえませんでしたか?」
驚かれないように、俺はゆっくりと尋ねた。
「ぎゃあああああ!!」
女性より先に男性が声を上げる。
「ちょっと、逃げないでくださいよ」
カップルに逃げられ、公園は一瞬にしてもとの静けさを取り戻した。誰もいない公園のベンチに腰を据えた。背にもたれた。

30分後、俺は悲鳴によって目が覚めた。しかもけっこう近そうなので場所は特定できる。きっと公園内だろう。俺はそこへ向かって走り出した。乞食が震えながら倒れている。上にゴキピョンが乗っかっていた。どうやら俺と勘違いして飛びついていたようだ。
「そいつは違うゴキピョン!俺はこっちだ!」
ゴキピョンは俺に気づくと、乞食を置き去りにし飛びついてきた。

銭湯

「ただいま!」
俺とゴキピョンが部屋に入ると、大量のゴキブリが待っていたかのように俺にじゃれついてきた。俺はしばらくの間、身動きがとれなかった。
「よし、久しぶりに銭湯に行くか!」
落ち着くと、今日はさすがに疲れたので、俺は久しぶりに銭湯へ行くことに決めた。

 夜中の3時、ゴキブリの群れを連れ、いつもの銭湯へ。受付は大量のゴキブリを見た瞬間、何も言わずにのけぞった。
「タダでいいのか?悪いな」俺が店員に言った。
風呂場に俺が現れると、他の奴らは逃げていった。数ヶ月間、どす黒い体を露にした俺と、ついてくる大量のゴキブリの群れ。これを見て逃げないヤツはいない。ただ、今までもそういう事はあったので、もうすっかり慣れている。

 黒くて汚い体は、まるでプールに楽しく飛び込むようにして、湯の中に入っていった。大きな水しぶきをたてる。まだ体をこすってもいないのに、汚れが俺の体から湯へと広がってゆく。湯の色が透明から黒へ変化した。まるで月食だった。ゴキブリ達は泳げないので、ガサガサと風呂場を駆け回っている。

「久々の風呂は最高だ!さて、体を洗うか!!」
手で赤をすり落とし、頭を湯に突っ込みそのままガリガリ洗った。とシラミ等を落としていく。シャンプーなどは一切使わない。最後は喉が渇いたので湯をたっぷり飲んでおく。どす黒い風呂の水は最高にうまかった。汚れの苦さが、お茶を連想させる。世界で一つだけのお茶。

「よーし、帰るか!!」
風呂をあがると、管理人が待ち伏せしていた。
「に、二度と来るな!!」
言いたいことだけを言うと、奥のほうへ消えていった。少しくぐもった口調からは、俺への恐怖を感じ取れた。・・・また、近いうちに遊びに来てやるぜ。心でそう囁き銭湯をあとにした。家に帰る。

「いろいろあったが、いい1日だったなお前ら」
俺とゴキブリ達の最高の一日が終わった。

戻る